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90年代に入ってから製作を始めた、“蜘蛛”シリーズ。長い足の間に細かい糸をはり、守るようでもあり、逆に攻撃するようでもあるこの生き物は“ママン”、ブルジョワの母のイメージ。彼女は自分の子ども時代のトラウマや思い出を製作のイメージソースとしています。
展覧会場入口では、93年BBC製作のドキュメンタリーが流れ、彼女の生活、インタビューを見ることができます。乱暴な父親が自分の家庭教師を愛人とし10年同居していたこと、それは彼女の作品を語る時必ず書かれる話でもあります。 『私の作品はすべて彼女に対して作っているのよ』とブルジョワ。このインタビューの中でもしばしば、男性全体に対するあからさまな反感、かみつくような発言がみられました。インタビュワーの『あなたは男があまり好きじゃないようですね』との質問に『それはあなたの意見よ。あなたがどう思おうと自由だから、じゃあ自分で喋れば良いのよ。鏡を見なさいよ!』と手鏡をカメラに向けてくる彼女。インタビューを無視して電鋸でけたたましい音を立てて小さな木を切り刻んで行きます。ヒステリックにもみえるような彼女の行動が、鋭い痛みのようなものを感じる、作品の表現に重なります。 |
私は、ブルジョワの作品の中でも“セル”と呼ばれる、牢屋のような、金網の中にインスタレーションをした作品シリーズがとても好きです。好き、というのとはちょっと違うかも知れません。しかし、自分の中にあるどこかに似たような気持ちがあるのを感じるのです。特に日本に居た時には押さえ付けられた女性、歪んだ性、などの表現には非常にリアリティを感じました。でも反面、作品を語るのになぜ、昔のトラウマとか父親との関係がどうとかって必要なのかしらん?と疑問に思う部分もありました。 ドイツに来てから、あまり自分が女性だとか、そのことで差別をされていると言うふうにはほとんど感じなくなり、息が、楽になった感じです。そして作品もそれを伴い軽やかになり、物事をみる“目”が変わってきたと思います。 しかし依然として彼女の作品は心に響いてくるものでした。フェミニズムがどうとか、彼女のトラウマがどうとかいうことはまったく抜きにして、ただ身体の喪失感、パースペクティブの無さ、不安、ヒステリックな気持ちと美しさ。それがぴりぴりと伝わってきました。金網が、鏡が、細い足が、そこにある切り取られた空間が語りかけてきたのです。 企画者の人と大学の教授に最後に感想を聞かれ、今と昔で作品の見え方が違うことを話したのですが『それはこの美術館での見せ方にもよるかもしれないし、あなたの今の立場にもよるかもしれない。ルイーズ・ブルジョワがアメリカに来て、自分のアインデンティティーを見直すきっかけを掴んだように、あなたも今の立場からそういう製作ができるのでは?ぜひ機会があったら作品を見せて下さい。』と製作を促すように言われ、なんだか感激しました。 “私は私の作品”という言葉は、自分のアイデンティティーを自分の生活をすべて反映させ作品に込めているようにも解釈できるけれど、逆に、何十年も生きてきた自分がつくり出すものが、ただ、自分を表している、という風にもとれる気がして、ちょっと気楽になりました。一時期、日本的な作品を作ることへの葛藤、疑問などにさいなまされていたのですが、それもすっきりし、なんにしろ、作っていくことが、そして自分に妥協をしないで作品と向き合うことが大事なのではないか、と思い、アイディアがたくさん湧いてきて、わくわくしながら家に帰ってきたのでした・・・・。 |
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